“義理チョコもない夜は、、、”
今夜はチロルチョコ
帰り道のコンビニ。自動ドアが開くと、そこには「戦いのあと」のような棚が広がっている。 華やかなラッピングの特設コーナーはスカスカで、わずかに残ったリボンが所在なさげに揺れている。世界中が甘い熱狂に浮かされていた今日という日、僕のポケットには、もらったチョコの重みも、ホワイトデーへの義務感も入っていない。
そこで僕は、あえてレジ横の**「チロルチョコ」**に手を伸ばす。
1. 最小単位の幸福
チロルチョコは偉大だ。 デパートの地下で恭しく箱に収まっている一粒500円の高級ショコラは、食べる側に「心して味わえ」というプレッシャーを与えてくる。しかし、チロルチョコはどうだ。 10円(今はもう少しするけれど)から買えるその四角いフォルムは、いつだって僕たちの味方だ。 誰に遠慮することもなく、銀紙を剥いて口に放り込む。その瞬間、バレンタインという巨大なイベントは、ただの「おやつタイム」へと解体される。
2. 「選べる」という贅沢
誰かから贈られるチョコは、相手のチョイスに従うしかない。 しかし、自ら選ぶチロルチョコには自由がある。
- 定番の「ミルク」で安心を買うか
- 「コーヒーヌガー」で少しの苦味を噛みしめるか
- あるいは、季節限定の奇抜なフレーバーに挑戦して「やっぱ普通のが一番だな」と苦笑いするか
この「自分で選ぶ」という行為こそが、今日という日に欠けていた主導権を自分に取り戻す儀式になる。
3. 明日へのエネルギー効率
高級チョコの箱は、空になったあとも「捨てづらい」というノイズを残す。 だが、チロルチョコの包装紙は潔い。クシャッと丸めてゴミ箱に投げ入れれば、それで完了。未練もなければ、お返しを考える悩みもゼロ。
「チョコをもらえなかった」という事実は、裏を返せば「誰に対しても、その期待に応える義理がない」という最強に自由な身分であることを意味している。
今夜、僕のデスクの上には、3つ並んだチロルチョコ。 これをゆっくりと、好きな順番で食べる。 豪華なフルコースではないけれど、今の僕にはこの「手のひらサイズの満足」がちょうどいい。
甘すぎない夜。これはこれで、悪くない。


